こんな味のしない冷麺を食べたことがあっただろうか。
国の命運を左右する首脳会談を直前に控え、彼の箸を持つ手は震えていた。ここ数日眠れない夜が続いた。連夜催される美女軍団の宴も効果は無かった。床についても頭に浮かぶのは、西の大国のトップ。あの異様な髪型をした男の、勝ち誇った顔ばかりだった。
彼の国はかつてないほどに追い込まれていたのだ。
「お薬を飲まれますか」
側近が耳元でささやく。彼は片手でそれを制した。
「あれは冷えているか」
「もちろんです…が、時間が」
「いいから持ってきてくれ」
側近は踵をならして振り返ると、給仕の女に向けて三本の指を立てた。それを見た女は一礼すると部屋を出て行った。
《核こそ抑止力成り》
震える手でスープまで飲み干した冷麺の、丼の底にはそう書かれていた。父の言葉に背くつもりは無い。時には引くことも大事だと、彼に教えたのもまた父だった。
「お持ちいたしました」
側近が彼の目の前に黒々とした液体の入った瓶を置く。蓋は空いていた。元々貼られていたであろうラベルはきれいにはがされていた。だが彼にはこの飲み物が何なのか分かっている。父が西側の飲み物だと教えてくれたものだ。
彼は震える手で瓶を持ち上げようとしたところ、あまりの手の震えで黒い液体をこぼしてしまった。
「布巾を持て」
叫ぶ側近。
「このままでよい」
彼は立ち上がると、悠然と扉へ向かって歩を進めた。
群がる報道陣の前で、南の大統領はその男とかたい握手を交わした。初めて見るその男は、映像で見るよりも大分若く見えた。一分ほどにわたって握っていた手を離した大統領は異変に気付いた。
手がやたらとベタついたのだ。そして北からやって来たその若者のくちには、不敵な笑みが浮かんでいた。
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